『猫背の王子』

2024年2月

中山可穂『猫背の王子』集英社文庫 2000.11.2

 

右目は完全に乾いていた。左目の涙はとめどがなかった。いつかこれを芝居で使おう、とわたしは思った。善と悪とに引き裂かれるひとつの肉体。二重人格者の悲しみの表現。半身ずつを完璧に使い分けて神と悪魔とを同時に宿らせることが出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。

 

それでもわたしが舞台で演じる歪んだ少年像は、ついにこの世に生まれ出ることのなかった双子のきょうだいの片われなのだ。かれは男でも女でもない。大人でも子供でもない。性別も年齢も国籍も持たぬ生き物が舞台で息を吹き返し、この邪悪な世界を滅ぼしにかかる。そこで初めてわたしはわたし自身になることが出来る。わたしは毒を注がれて狂った花だ。わたしは狂熱の孤独にふるえる一匹の蛭だ。目をそむけたい者はそむければいい。でも由紀さんだけは、この孤独をまっすぐ正視しなければならない。そして是非ともこの地獄にいる少年に救いの手を差し伸べなければならない。

 

わたしは父の顔も知らぬ。だから革命を起こす資格がある。わたしは父の顔も知らぬ。だから天皇を殺す権利がある。わたしは父の顔も知らぬ。だからおまえのくちづけを拒否する。

 

「先生、つらいの?苦しいの?どこが痛いの?」

「ここ。ここが痛い」

「どこ?心臓? 心臓が痛いの?」

「ちがう。心が、心が痛いの」