『猫背の王子』

2024年2月

中山可穂『猫背の王子』集英社文庫 2000.11.2

 

右目は完全に乾いていた。左目の涙はとめどがなかった。いつかこれを芝居で使おう、とわたしは思った。善と悪とに引き裂かれるひとつの肉体。二重人格者の悲しみの表現。半身ずつを完璧に使い分けて神と悪魔とを同時に宿らせることが出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。

 

それでもわたしが舞台で演じる歪んだ少年像は、ついにこの世に生まれ出ることのなかった双子のきょうだいの片われなのだ。かれは男でも女でもない。大人でも子供でもない。性別も年齢も国籍も持たぬ生き物が舞台で息を吹き返し、この邪悪な世界を滅ぼしにかかる。そこで初めてわたしはわたし自身になることが出来る。わたしは毒を注がれて狂った花だ。わたしは狂熱の孤独にふるえる一匹の蛭だ。目をそむけたい者はそむければいい。でも由紀さんだけは、この孤独をまっすぐ正視しなければならない。そして是非ともこの地獄にいる少年に救いの手を差し伸べなければならない。

 

わたしは父の顔も知らぬ。だから革命を起こす資格がある。わたしは父の顔も知らぬ。だから天皇を殺す権利がある。わたしは父の顔も知らぬ。だからおまえのくちづけを拒否する。

 

「先生、つらいの?苦しいの?どこが痛いの?」

「ここ。ここが痛い」

「どこ?心臓? 心臓が痛いの?」

「ちがう。心が、心が痛いの」

 

 

 

『さらば、わが愛 覇王別姫』

2023年夏読了

李 碧華『さらば、わが愛 覇王別姫』ハヤカワ文庫 1993.12.1

 

P6

つまるところ、人生は劇にほかならない。もしそのハイライトだけ見物することができれば、私たち皆にとって、ことがずっと容易なはずだ。ところが私たちは、紆余曲折のプロットと耐え難いサスペンスに付き合わなくてはならない。私たちは博徒した脅威にさらされながら暗闇に座っている。もちろん、私たち観客は劇場から出て行くことができる。だが演者にその自由はない。幕が上がれば、初めから終わりまでその役を務めなくてはならないのだ。身を隠すところはどこにもない。

 

P127

劇場は幻の世界だが、それが彼の知る唯一の世界だった。その他の世界は彼のかたわらを流れていくだけに思えた。夢以上に実体を欠いていた。

 

P135

だが、蝶衣の熱烈な崇拝者は勘違いしていた。彼らが愛しているのは彼ではなかった––––彼という観念だった。男が女性としての彼を愛し、女は男性としての彼を愛した。誰も本当の彼を知らなかった。

 

P155

宇宙の中で、人はちっぽけで取るに足らない存在だ。寂しい、孤独な生き物だ。何もかもが終わった。

 

P188

愛は賭けごとに似ている––––あまり長くやっていると最後は負けに決まっていた。人生は黄粉のようだと彼は悲しい気持ちで考えた––––かすかに甘く、そして曖昧だが温かい色をしている。

 

P199

小樓は蝶衣の人生において唯一の真実の人格––––彼の人生において一番大事な人間––––であり、自分を水面に浮かび続けさせるための唯一のたよりだった。

 

P219

蝶衣は白塗りに紅をさし、目と眉はたいそう几帳面に書いたので、まるで一対の桃の葉が彼の目に影を落とし、この世の光景から彼を護っているように見えた。(中略)最後に、彼は小樓の化粧用の刷毛に手を伸ばした。小樓の額の傷痕を見たとき瞬間的に、この二十年以上のあいだに何一つ変わっていないような印象をもった。

 

P236

それと同時に彼は刀を火の中に投げ込んだ。だが炎がそれを呑み込む前に、地下から逃げ出す霊魂のように蝶衣が火の中に飛び込んで、それを拾いだした。両手で火をもみ消しながら彼は、飾り房のこげた刀身を、何年も昔と同じ仕草で胸に抱いた。それは全世界で真に彼のものと言える唯一の品だった。

 

P239

小樓の言葉を聞いたとき、蝶衣は喜びと悲しみの入りまじった気持ちを味わった。毛主席がかつて言った。「この世に合理性のない愛は存在しない。原因のない憎しみも存在しない」と。だが、彼は間違っていた。憎しみには幾千もの原因があるが、愛はその本質において不合理なのだ。彼はそれがまったくわかっていなかった。

 

P261

小樓はたくさんの文字が読めるようにはならなかったが、その三字は真先に憶えたなかのもので、永遠に心に刻みつけられていた。